Jazz Pianist
Seattle 2019
Texts and Photos by Takeshi Asai
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第1話 ニアミスの街 |
私にはファイナンス業界で働くしっかり者の細君がおり、彼女は毎年アメリカやカナダの色々な街で開かれるコンファレンスに参加する。今年はシアトルであったが、大変光栄な事に私を連れて行ってくれた(笑)。もちろん遊んでいるわけにはいかない。私は私でエレクトリックベースとコンピューターを持ち込んでシアトルでミュージック・プロダクションに取り組む事になった。 シアトルは私にとって「ニアミス」の街なのだ。まだITのプロジェクトマネージャーをしていた頃、一度仕事で来たことがある。ちょうどイチロー選手が活躍を始めた時であった。その数年後、光栄なことに私はシアトルを本拠地にするM社から声がかかった。ITのキャリアを突き進むのであれば願っても無いチャンスであったが、NYでの演奏活動を選ぶという、全くもってふざけた理由で辞退してしまった。あの時、M社に入っていたら今頃どんな人生だったのであろうか。今も時々考えるのだ。 さて、又しても土曜日深夜の演奏であまり寝ていないところを、日曜日の早朝に起こされてJFKに向かう。ひたすら眠い。飛行機は、そんな私には嬉しい直行便。それでも6時間かかる。同じ距離を東に飛べばロンドンである。アメリカは広い。 私の普段の貧乏演奏旅行と違ってさすがはファイナンス業界のコンファレンス、空港の送迎もきちんと手配され、ホテルはHyatt Regencyである。東海岸はNYと三時間も時差があり、夕食をいただくとNYではもうベッドタイムである。旅先ではよく眠れる。 次の朝、早速懐かしのパブリックマーケットに出かけることにした。シアトルは小さい街だが、非常に綺麗で美しい。途中にシアトル・マリナーズのショップがある。今でもイチローのメモラビリアがメインに飾ってあるが、Iwakuma、Kikuchiのジャージーも売っている。 数ブロック歩くと急に風が吹いてきた。海が近いはずだ。丘を登ると1993年のトム・ハンクスとメグ・ライアン主演の映画「Sleepless in Seattle」で観た景色が広がる。有名な赤い字のPublic Marketの看板と、その向こうに広がる海。シアトルはほぼ毎日雨が降る。今日もどんよりとしていた。 マーケットに入る前に、スターバックス一号店に寄った。信じ難いことであるが、今では世界中どこにでもあるスターバックスは、今目の前にあるこの小さなスパイス店から始まったのだ。入り組んだ湾の奥に位置したこの街は長い事貿易には便利な港町であったのだろう。その為にスパイスやコーヒー、お茶の交易が盛んであったに違いない。スターバック以外にも、Pete’s Coffee, Seattle Coffeなど多くのコーヒーブランドがシアトルから出ているのも偶然ではないはずだ。 そして、その昔に美味しくランチをしたマーケットに入る。残念ながら、今では様変わりして殆どがクラフトや土産物屋になっていたが面影は残る。昼からは雨が降って来るらしいので急いでホテルに戻る。良い朝の散歩であった。 さて、コンファレンスなので、夜も様々なディナーがあって、時には正装をして出かけるのだが、今日は午後からオフなので、夫婦で遊びに出かけることにした。例のマーケットを通り抜けて、海沿いへ。ピア66を目指すが、目の前にあるピア57が面白そうなので急遽行き先を変更。 大きな観覧車The Seattle Wheelがある。ちょうど夕刻で、海の水面を光が鑑のように反射して幻想的に美しい。NYにいると貧乏暇なしに忙しいので、こういう時間は貴重である。じっと座って行き交う船を眺めていた。 これだけ海が綺麗な街は、やはり海産物が豊富だ。グイダックと呼ばれる大きな貝が有名で、数年前に、ジロー寿司ならぬシロー寿司でそれを握ってもらった。その時はまだお金が無くて(今も無いのだが)細君一人だけ注文した。今回は二人で食べようと思っていたのだが、調べてみるとシローさんはいらっしゃらなくて、弟子だという方々が店を経営して偉くハイエンド化していたので諦めて別のところに行く事にした。 取り敢えずその辺の日本食屋で安いご飯を食べようとしていたのであるが、ピア57の中にシーフードレストランがある。せっかく海の街シアトルにいるのだ、ここで安いパスタでも食べようと中に入る。すでに長い列ができているので、チェックインしてテキストが届くのを待つ。その間に色々と展示物を見ると、なんとここにもゴールドラッシュがあって、多くの人が金を掘り当てようとやってきたことがわかった。そもそもこのピアはMiners Landingと言うらしい。当時の金を採掘する模様が写真で伝えられ、実際の道具も展示してある。お腹が減っている私にはパエリアを作るパンに見えるが(笑)。 さて、店内に入ると客は全員なにやら膨大の量のシーフードを直接テーブルに乗せて手で食べている。そうなのだ、ここはThe Seafiestsが有名で、あさり、えび、ムール貝、サーモン、カニ、牡蠣にトウモロコシとジャガイモを一緒に茹で上げたものを大きなボールに持ってきて、テーブルの上にドカンとぶちあける。で、エプロンをして、まな板と木槌で漁るようにシーフードを食べるのだ。値段は一人42ドル。12ドルのグイダック寿司が高いと言っていたカップルが、あっさりこちらを食べることにする。この変わり身の早さ(笑)。 いや、素晴らしい。通常、シーフードというのは、パスタやらご飯やらについてくる「おかず」であるが、ここではシーフードだけでお腹が膨れるという大層な贅沢を味わった。きっとマイナーたちもこうしてシーフードを食べたのであろう。 すっかり満腹になって帰路につく。シアトルという街は先回もそうであったが、歩いて20分でホテルに戻れるのである。素晴らしい夜であった! (続く) |
第2話 日本町哀史 |
細君のコンファレンスが全て終わり、私もホテルにこもって取り組んだプロダクションが飽和状態になり(笑)、予定通り昼からオフィシャルに遊びに行く事になった。 ホテルからすぐのところに、トラムと地下鉄とモノレールが集結する小さな広場がある。私は子供の頃から乗り物が好きで、ここからどれかに乗って出掛けたいものだとここ四日間通るたびに思ってきた願いが今日叶う(笑)。 まずは地下鉄でChinatown/International Districtを目指す。チャイナタウンでラーメンが食べたい。駅を降りて地上に出た瞬間、先回来ていることを思い出す。記憶に残っていないということは、それ程楽しんでいないということか。非常に空腹なので、すぐに出てきそうな庶民的な店に入る。早い、安い、ラーメンと餃子が美味い! さて、すっかり満足したので、次はバスに乗ってシアトルのランドマーク、スペース・ニードルに出かける。バス停に着くと、目の前にHigo Variety Storeという日本の店がある。急いでニードル・タワーに行く必要は無いので早速店に入ってみた。古い日系人の店を上手く現代のクラフトショップにアレンジしていた。 そしてまたバスに乗ろうとしたところ、「日本町横丁」と書いてある壁を発見。またしても寄り道をして詳しく看板を読んでみると、なんとここにはかつて日本町(にほんまち)が栄えていたとのこと。これは観るしかない。歩いて坂を登っていくと、今は閉まっているが古い店の入り口に当時の写真が飾ってあり、博物館のように日系人たちの歴史を物語る。Variety Store にバリエテ・ストアとカナが打ってある。少し笑った。当時の銭湯も、ホテルも、飲食店ももう営業はしていないが看板が残る。横丁の中心にPanama Hotelというホテルがあり、そこにカフェがある。中を覗くとさらにたくさんの写真が展示してある。先ほど食べたラーメンでお腹がタプタプであるがこれを観ずには帰れない。早速入ってみた。 小綺麗なカフェには、当時の写真が並ぶ。日本から来ている留学生の女性が親切に町の歴史を教えてくれた。なんと最盛時には7800人の日系人が住んでいたという。写真には仕立ての良いスーツを着たイケメン男性達と、艶やかな女性達が写る。日本語の新聞には誇らしく出した店の広告が並び、桜祭り、商工会議所主催のビューティー・コンテストなど当時の日本町の繁栄を見事に伝えている。19世紀から、ここには異国にあっても立派に力強く生きている日系人たちの繁栄の街があったのだ。 が、戦争が全てを変えてしまった。第二次世界大戦で日系人たちは敵国民として全財産を没収され、収容所に入れられる。その思いは私の想像を超えるだろう。カフェに飾られたある立派なご夫婦は、収容所に送られる前に、このパナマホテルに来て、持っていけない家財道具を託したそうだ。それ以来、収容所に送られる日本人は皆、このホテルに家財道具を預けるようになる。そして戦争が終わり、収容所から戻るとここに荷物を取りに来たそうだ。その時引き取られなかった荷物は、なんと今も倉庫に保管され、カフェのガラス越しの床から観ることができる。それを見た時、バリエテ・ストアを笑った自分が強烈に申し訳なく思った。サブタイトルに、History of Resilienceとある。収容所から戻った日系人たちのほとんどは日本に帰らず、別の場所に移ってまた一から生活を始めたのだそうだ。 この日系人たちの物語は、NHKでも「二つの祖国」、「山河燃ゆ」などでドラマ化され、ハリウッドでも工藤夕貴とEthan Hawke主演の1999年の映画「Snow Falling in Cedars」でかなり克明に描かれている。私はグリーンカードでアメリカに生活する移民である。言葉にはできない大きな衝撃が心を揺さぶった。マウイのリゾート地、ラハイナにも古い日本町の跡が残る。美しい海のビーチに下手な字で掘られた墓碑銘を観て突き上げる衝撃があった。今回もそれと同じである。 ここはアメリカの国宝に指定された史跡なのだそうで、今でも子孫の方がこのホテルを訪れ、古い写真に親や親族を見つけ、サインを残していくようだ。壁には手描きの地図があり、どこに誰が住んでいたか詳細に残っている。驚いた事にパナマホテルは今も営業していて、入り口には8月のお盆に合わせて行われるブロックパーティーのチラシがある。 日本町に心を残したままバスに乗り、今度こそスペース・ニードルに向かう。以前も入った音楽の博物館MoPopや様々な施設が並ぶ、噴水の綺麗な公園は居心地が良い。37ドルも入場料を取るニードルには登らず(2回目なので)近くで日向ぼっこをしながら先ほど観た日本町と日系人、そして自分たちの将来に思いを巡らせた。 もしあの時にM社のオファーを受けてこの街に住んでいたら今頃どうなっていたのだろう。が「そはかくの如し、かくあらずを得ず」、NYの今の生活が私たちの生活でそれ以外はあり得なかったのだ。モノレール(嬉しい!)でホテルに戻り、帰りの準備をする。明日は一日かけてNYに戻り、明後日はダブルヘッダーで演奏だ。それが今の私の生活なのだ。そしてそれは多くの先人の方々の努力と犠牲の賜物である事を忘れてはならないと思う。 (終わり) |
Camera: Canon RP & iPhone X
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