Jazz Pianist
Australia 2018
Texts and Photos by Takeshi Asai
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第1話 9月25-27日(火-木曜日) 初めての南半球 |
今年は海外ツアーの多い年である。夏のロンドン、パリ、南フランスに続き、この秋はオーストラリアに出かけることになった。NYの地球の裏側に当たるこの国はあまりにも遠く、その故馴染みは薄いのであるが、まことに幸運な事に、かの地に住むソルボンヌの博士号を持つあるスカラーが私の音楽の大ファンになってくれ、メルボルンで私のコンサートを企画してくれるとの誘いをいただいた。元々はフランス繋がりだったと思うが、詩人でもある彼は事あるごとに私の音楽や私の言葉に詩を書いてくれていた。勿論、それは私の宝物になっている。 9月25日午後、飛行機が飛ぶかどうかも心配な豪雨の中、私たちはLyftでJFKに出発した。生まれて初めてのオーストラリア、生まれて初めての南半球、生まれて初めてのカンタス航空である。昔見たトムクルーズとダスティンホフマンの映画「レインマン」の中で、「最も事故を起こしていない航空会社はカンタスだ」というシーンが蘇る。 天候のせいで時間がかかったが、なんとかJFKに到着。だが、カンタスのチェックインカウンターで「ビザはあるか?」と聞かれた。まさか。最悪の場合入国できないことも覚悟したが、「大丈夫、今から申請すれば。」と係員がその場でオンラインで申請し、10分ほどでビザが発行された。何だったんだ(笑)。 豪雨のおかげか飛行機がなかなか飛び立たず、1時間半も機内で待機。乗り継ぎが無事にできるか不安になったが、なんとか飛び立った。映画を数本見て6時間後にLAに到着。すでにパリに行くのと同じフライト時間を過ごしたが、ここからメルボルンまではさらに14時間、私の経験した中でも最も長いフライトである。そもそも、火曜日にNYを出て、現地に着くのは木曜日。金曜日が最初のコンサートである。 LAの空港では、メルボルン行きの便がNYから遅れて到着した私たちを待っていてくれた。走ってゲートに行くと「Asaiか」と聞かれた。私たちは最後の搭乗客であった。で、14時間。寝られずにひたすら映画をみた。映画に飽きた頃、隣の乗客と会話が始まった。シアトルに住んでいるアメリカ人だが、メルボルンに数年住んでビジネスをしていたという。かなりの音楽好きで、すぐさま私のことをGoogleして探してくれ、メルボルンの演奏に来てくれると言ってくれた。旅の出会いは嬉しい。 永遠とも思われる飛行時間の後、私たちはメルボルンに着く。ほとんど寝ていない目に太陽は眩しい。空港でコーヒーをオーダーしたら「ヨノーム?」Your nameのことだな。初めて聞く生きたオーストラリア英語であった。ソルボンヌのピーターが迎えに来てくれた。タクシーでメルボルンの街へ。 目の前にはまるでカリフォルニア郊外のように赤茶けた大地が広がる。街に入った。さすが英国連邦、この夏に行ったロンドンを思わせる街並みが美しい。なんと桜が咲いている。9月ー6=3月、今は北半球でいう3月で、ちょうど桜が開花する時期なのだ。 ホテルは、三つのコンサートのうち二つの会場に歩いて行けるようにアップタウンの長期滞在用のアパートメントホテルを取った。スタッフが親切で、ありがたいことに昼前なのにチェックインさせてくれた。体内時計はもう何時なのかさっぱりわからないが、ランチを食べに街へ出る。ホテルの周りの街は古くて埃っぽいが、よく見るとヴィクトリア様式の鉄の屋根飾りが一様に施されている。ホテルの横には郵便局があり、そこにはEiiRと刻んである。エリザベス2世のことである。さすが英連邦、アメリカではない。通りには路面電車が走り、子供の頃の日本にタイムスリップをしたようにも思う。 人々は中国系が人口の半分を占めているように見える。かつては人種差別政策が敷かれていたはずであるが、今はインド、中国や、ベトナムやネパールなどアジアからの移民が多く人口がどんどん増えているブームタウンだそうで、地価も軒並み上がっているという。かつてはたくさんの日本の移民もいたらしい。 もちろん、イタリアンも多く、イタリアンレストランも事欠かない。目抜き通りはたいそうお洒落でどの店もすごく良さそうだ。悩んだ挙句、ベトナム系の餃子屋へ。美味い。 食後は花見。公園には綺麗な桜が咲いていた。夏には暑くなるのであろう、見慣れない植物も生えている。NYはメランコリックな秋であったのがここは春、何やら全てが始まるような躍動感がある。が、私たちは20時間以上のフライトで地球の裏側からやって来ただけあって非常に眠い。今寝たらダメだと言い聞かせながらも、ホテルに戻ってベッドの上に横になった瞬間眠りに落ちてしまった。そこからたっぷり寝てしまい、目が冷めると夜中の12時であった(涙)。時差ボケは辛い。明日(今日である)のコンサート大丈夫かなぁ(笑)。 (続く) |
第2話 9月28日(金曜日) メルボルンのジャズクラブ |
昼夜が真逆になってしまったが、なんとか朝を迎えた。ホテルの窓からはアップタウンの鄙びた街並みに家具屋、楽器屋、レストラン、カフェが並ぶ。その上空をなんと気球が飛んでいる。どうやら今日は祭日なようだ。慌てて動画を撮ってみた。何やら面白そうである。 朝食で街に出る。昨日歩いたアップタウンに行ってみたが、時間が早いのか、祝日だからなのか、店がたくさん閉まっている。開店準備中のイタリアンカフェに入ってコーヒーとクロワッサンを注文。 昼に、今回のツアーの首謀者であるピーターがホテルに来てくれた。彼は、私たちが遠くニューヨークから来ているというので気を使ってくれて、私たち夫婦をダウンタウンまで連れ出して豪華なランチをご馳走してくれようとする。その気持ちは本当に嬉しいのであるが、私は時差ボケが非常に辛いことと、そんな中で今夜メルボルンのジャズクラブ、Dizzy’s Jazz Club でトリオ演奏があるので、なるべくホテルで休みたい。わがままを言ってホテルから歩けるところにあるイタリアンでパスタをいただいた。彼としては、街で一番気に入った中華料理か日本料理をと思ってくれていたと思うが、ごめんなさい。食事をいただいたら、やはりホテルに戻って休憩、起きてからその晩演奏する曲のソングリストを作る。 演奏の日程は、今回はニューヨークのマネージャーがまとめてくれた。よくまとまったのか、強硬スケジュールなのかは紙一重で、到着して次の日に早速一番ハードなトリオの、しかも結構名門なクラブでの演奏があり、その次の日は、午後のピーター主催のコンサートと夜のクラブでのソロピアノがダブルヘッダーで組んである。これは実はかなりきつい。ヨーロッパでの演奏では、時差がなくなるまで三日間遊んでいられたことがたいそうな贅沢に思える。 でも、頑張るしかない。夕方起きてシャワーを浴びUberでDizzy’sへ。運転者は南米からきた移民であった。移民の立場から、オーストラリアがどんな国かを聞ける良い機会であった。日本を凄く良い国だと思っていてくれた。 街は意外と小さいので、すぐに会場に到着。今回は、オーストラリアのミュージシャン二人とトリオを組む。ベーシストBen RobertsonとドラマーDanny Fischer、ニューヨークのミュージシャンのつながりでお願いした。なんと普段ニューヨークで演奏しているドラマーとは兄弟弟子であり、世の中が非常に狭いことを改めて実感。 とてもレトロでお洒落な建物の二階がジャズクラブで、その一階のレストランでバンドメンバーと食事。生粋のオーストラリア英語が耳に心地よい。夏に過ごしたロンドンのアクセントと似ているが少し違う。隣にいた若いカップルが、自己紹介してきてくれた。なんと私を聴きに来てくれているのだという。なんという光栄。 時間となり上階のクラブへ移動。やはり時差で眠い(涙)。チェコ製のPetrofというグランドピアノが置いてある。美しいピアノだ。ちょっとだけチューニングが甘いが、何とかなるだろう。問題は時差ボケだ。頑張らねば。 祭日とあってお客さんはたくさんは来てもらえなかったが、日本の会社員時代の繋がりで来てくれた人、現地のファンのかた、ありがたいことに、行きの飛行機で知り合った新しい友達ジムがメルボルンの女性を連れて聴きに来てくれた。まさに、一期一会だ! リハ無しで、初めての共演者、初めての土地、かなりの時差ボケで非常に苦しいステージであったが、最後は盛り上がってくれた。この二人のミュージシャン、腕も人柄も本当に良い。クラブオーナーの若いカップルも本当に良心的で採算を度返してしてギャラをくれた。感謝感激である。が、演奏はもっと上手くできたと思う。そう思うと悔しくて、ホテルに帰っても中々寝付かれなかった。 明日はハードな1日だ。昼間は教会でのソロコンサート、夜はクラブでのソロ、同じソロでもソングリストは違う。頑張って寝なければ。 (続く) |
第3話 9月29日(土曜日) ダブルヘッダー |
メルボルン二日目の朝、まだ時差ボケはきついし、昨夜のクラブ演奏の疲れも取れていない。でも、今日はツアー中最高に忙しい一日で、昼から教会でソロコンサート夕方はアップタウンのジャズクラブでソロの演奏である。 頑張って起きて近くのカフェで朝食。そのあとはホテルに戻りギリギリまで休む。で出発。実はここのコンサートを楽にするためにわざわざ一番近いホテルを取っておいたので、歩いて5分で会場に到着。レンガ造りの綺麗な教会の中に、カワイのコンサートグランドが置いてある。つや消しの黒が良い。 このコンサートは、フランス繋がりで知り合って、ここ数年私の熱狂的なファンになってくれていたメルボルン在住のソルボンヌ大学のスカラーが主催してくれた。自身もバイオリニストであり作曲家でもある彼は、地元の音楽家たちを集め、The Melbourne Circleなる組織を作って定期的にコンサートを開いて、音楽家同士の交流に貢献している。毎回アマチュアから音大教授から世界をツアーする作曲家まで多くの音楽家が集まり一つのコンサートにしていくというオムニバスの音楽祭である。今回は、一部と二部のトリを私に託してくれた。なんという光栄だろうか。多くはクラシックの音楽家なので、きちんとプログラムに曲が書いてあるが、どんな時もその場で曲を決める、もしくはそのまま即興演奏をしている私のところにはown compositions on pianoと書いてあった(失礼)。熱のこもった演奏を楽しませてもらっていると、私の番が突然やって来た。まずは皆さんにお礼を述べて即興を披露させていただいた。 出演者とオーディエンスの国籍は、ロシア、イタリア、中国など様々で、これがメルボルンの今のデモグラフィーを叙述に物語っているように思う。普通の人にしては綺麗すぎる女性が話しかけてきてくれた。ニューヨークに昔住んでいたそうで、アクトレスであった。後で調べてみたら、なんとERに出ていたそうである。でもそんな女優にしてはとても優しくて、「メルボルンの観光はしたの?」「まだです。今日の夜の演奏が終わったら明日に街に出ます。」「どこ行ったら良いか、教えてあげるから、Eメールちょうだい。」と非常に優しくしてくれた。まさかと思っていたら、その晩、親切に見所を教えてくれるメールが本当に来た。セントキルダに行くと良いそうだ。 コンサートの後は皆でパーティーをして交流が続いた。我らがホスト、ピーターの息子さんのオーストラリア人の奥さんは、日本酒が好きで、それをビジネスとして何度も日本に行っているそうだ。元サッカー選手中田のことももちろん知っていて酒ビジネスの席で会ったこともあるという。日本との結びつきは非常に強いとみた。 さて、みんなと駄弁っていたいところだが、次の仕事がある。急いでホテルに立ち寄って、今度は歩いて次なる会場Up Town Jazz cafeに向かう。 ここはお洒落なダウンタウンではない。二階三階建てのちょっとゴチャゴチャしたストリートに市電が走る。これって絶対子供の頃に見た日本の地方都市の風景である。懐かしい。途中面白い光景を目にした。スポーツバーに入りきらないほどの人が集まり、何かのゲームを熱狂的に観ている。昨日ミュージシャンが教えてくれた通り、今日はオーストラリア版スーパーボールなのだ。だがよく見ると競技がラグビーでもサッカーでも無い。短パンにランニングシャツを着た男たちが、ボールを必死に追っかけ取っ組み合う、何やらサッカーとラグビーとレスリングを足して三で割ったような見慣れない球技である。 と言うことは、今日の演奏にはお客さんが来てくれないのかな?残念ながら満員にはならなかった。フランスのあるコンサートもワールドシリーズと重なったことがある。それでも、真剣に拍手をくれた数少ないお客さんに心から感謝して、最後の音まで弾ききった。大きな喜びと安堵感が降りてきた。 どこか幼少時の日本にタイムスリップしたような不思議な街の不思議なクラブで演奏して、急にお腹が空いてきたので、奥さんと近くの中華料理屋に入って安い中華料理を食べた。これでメルボルンの仕事は終了。明日は、大手を振って観光である。律儀なピーターがホテルに迎えに来てくれて、一日観光をしてくれるそうだ。それは楽しみだ。 急に軽くなった足取りでホテルへの帰路は楽しかった。メルボルンのアップタウンよ、ありがとう! (続く) |
第4話 9月30日(日曜日) メルボルンの休日 |
昨夜でメルボルンの演奏は終了。到着して最初の二日間で三つのコンサートという強行軍であったが、何とかこなす事が出来て非常に嬉しい。 さて、今日は主催者のピーターが奥さんのゲイルと私たち夫婦をメルボルン観光に連れて行ってくれるそうである。遊びじゃ! 親切なピーター夫妻は、私たちに市電のチケットをプレゼントしてくれ、まだ一度も出たことのないアップタウンから高層ビルの立ち並ぶお洒落なダウンタウン、メルボルンの中心へと連れていてくれた。市電は良い!ゆっくりと走る車窓からメルボルンのハイライトが見えてくる。昨日までひたすら演奏していたクラブ界隈とはまるで違い、モダンで華やかで、しかも歴史的な建物が立ち並ぶ。メルボルンがこれほど美しいとは(笑)。しかも天気が本当に良くて、眩しい初春の陽の光が新緑を見事に照らす。 街の中心の中心に、歴史的な駅ビルが立っている。まるでロンドンのようで壮大である。植民地時代にここを正装したブリット達が闊歩した様子が目に浮かぶようだ。感動している私に「少女のヌードが見たいだろう?」といたずらっぽく笑うピーターが連れて行ってくれたのは、隣にある小さいが同じく歴史的なパブで、その一室に等身大(以上)の少女の裸体像が掲げられていた。1909年からあるこの絵は、当時オーストラリアのマスコットと呼ばれたクロエと言う美少女である。彼女が何をしていたかは絵を見ればだいたい想像できるが、人々はこの有名な少女をずっと大切に掲げてきたようた。絵の周りでは昨夜のオーストラリア版スーパーボールの優勝チームを祝う人でごった返していた。私が「優勝おめでとう」と話を合わせると、非常に喜んで杯を傾けてきてくれた。少女の絵以外は、いたるところがいつか観た映画、アイザック・ディネーセン原作の「愛と悲しみに果てに(Out of Africa)」を彷彿させる。アメリカとは似て非なる雰囲気だ。 同じく歴史的な市庁舎前を通り、ランチに繰り出した。この街のレストランは二軒に一軒は中華である。知り合いの店に連れて行ってもらい、焼き豚、ローストチキン、ご飯、炒麺、ラーメン、それは食べきれない程であった。中国で暮らしたうちの両親によると、中国では完食するのは失礼なのだそうだ。もうこれ以上食べれません!と主張するには、残さなければいけないそうである。私は全部食べてしまったが(笑)。 街の中心にある市電の駅がハブになっていて、そこにいれば全ての市電に乗れる。隣の大きな広場には荘厳な大聖堂があり、時々鐘を鳴らしてくれる。その鐘の音がビルの壁に響いて、この美しい小春日和に心地よいサウンドトラックをつけてくれているようだ。その駅で、ピーター夫婦にお別れ。今回、こうしてメルボルンに招待してくれて、コンサートを企画してくれ、そしてこうしてメルボルンの親善大使を務めてくれた。これにはお礼の仕方がわからない。きっと長い時間をかけて音楽にしていくことなのかなぁ。「三年後にまた来てくれ」と言われ快諾。お二人ともお元気で再会できることを心から楽しみにしている。 さて、ここから私たち二人で、昨日出会った女優さんが教えてくれたセント・キルダに向かう。ピーターによれば、メルボルンのイパネマだそうである。市電で30分くらい走ると、海が見えてきた。で、駅を降りると眩い昼下がりの黄色い日差しがアンティークな建物とヤシの木に見事に反射して確かにイパネマに来たような(行ったことはないが)ハッピーな気分にしてくれる。コニーアイランドに似た遊園地があったので、よく見ると何やら提携しているようである。そのまま、ボードウォークを歩いてビーチへ。イギリスの避暑地Brightonと同じ名前のストリートがある。これは良いなぁ。今年は南フランスまでツアーしたもののビーチには一度も行けずに帰ってきたので、10月にそれを取り戻した気分だ。 歩き続けると海に桟橋が突き出ている。これは行くしかない。桟橋からは、メルボルンの高層ビル群が綺麗に見える。この海と高層ビルの組み合わせ、これはこの街のお家芸と言えそうだ。桟橋の先端には、何ともお洒落な建物があり、そこがカフェになっている。混雑しているがラッキーなことに席が取れたので、二人でコーヒーを飲む。火曜日にニューヨークを出てから、超過酷な移動、時差との戦い、初めてのベニューで初めてのミュージシャンとの演奏、パーティーと息をつく暇がなかったが、今こうして海を見ながらゆったりできることが本当に嬉しい。たっぷり夕刻まで過ごしてしまった。 日が陰る中、また市電に乗ってダウンタウンに戻る。今度は日が灯り始めた夕暮れの摩天楼が綺麗な川面に映えるのを見ながら散歩。フードコートに入って、私が勝手に「三食水」と呼んでいる中国のアイスティーを飲む。冷たくて美味い。 ランチがビッグでまだお腹が空いていないので、夕食用に寿司とコロッケを買って、すっかりお馴染みとなった市電でホテルに戻る。とても充実したメルボルンの一日観光であった。 来てよかった。そう思った。明日は、飛行機でシドニーに向かう。ピーターと奥さんのゲイル、そしてメルボルンに感謝! (続く) |
第5話 10月1日(月曜日) メルボルンからシドニーへ |
オーストラリア四日目の朝となると少し時差ボケが楽になってきた。今日はメルボルンからシドニーへの移動であるが、コンサートの主催地メルボルンでの観光が昨日一日では申し訳が立たないので(笑)、シドニーへの移動を昼過ぎにして午前中もいることにしていたのであった。アップタウンのカフェでゆっくりと朝食。ここはコーヒーの種類が多いし、ペイストリーも充実している。初春の朝の清々しい日差しの中、外のカフェで非常に良い時間を過ごした。 ホテルへの帰りにもう一度街を散策。もうすっかりお馴染みの町並みであるが、やはり演奏が終わった安堵感なんだろうか、全てが輝いて見える(笑)。ワイン専門店の歩道には葡萄が植えてあり、小さな房がなっている。ふと見るとブロッコリーも生えている。葡萄とブロッコリーは共生するのかと驚いて見ていると、店の若いお兄ちゃんが出て来て「冗談だよ」と手に取って笑っている。騙されて癪ではあるが、オーストラリア人のこの明るさは旅行者には嬉しい。 それにしても、このあたりは見るからにブームタウンである。お洒落な商業エリアは古い建物をどんどん吸収して広がっており、お金があればここら辺りのビルを買っておけば良い投資になると思う。ましてやここに寿司屋やラーメン屋を出せば絶対当たると思う。 さて、これでメルボルンとお別れ。Uberはすぐに来る。今度の運ちゃんはカトマンズから来た男性で、奥さんと子供を国において、いつか呼び寄せられるように今一生懸命にここで基盤を作っているのだそうだ。でも、どんどん地価が上がっているそうで、不動産の取得は難しいとのこと。他にもチョモロンマ(エベレストの現地語)のことなど興味深い話をしているうちに空港に到着。 さて、2度目のカンタス機である。ラッキーな事に滑走路からの搭乗となったので、例の白地に赤い尾翼、そこに白抜きにされたカンガルーのマークを間近で見ることができた。気分が盛り上がる! 1時間ちょっとでシドニーに到着。夏のように暑い。ここは非常に鉄道が便利にできていて、たった15分でセントラル駅に到着、そこから歩いてすぐにホテルである。ここはメルボルンに比べると大都会で何処と無く東京を思わせる。新宿南口に降りたようだ。 実は、次の日にシドニーのクラブに出演する話をいただいていたのだが、ラストミニッツで超大物ジャズミュージシャンのツアーに取られてしまった。無名の音楽家はこう言う時立場が弱い。したがって、明日と明後日と二日間、シドニーは観光になってしまったのである。が、初めてのシドニー、仕事をしている場合では無い(笑)。思い切り遊ぶ事にした。 随分と時差ボケから解放されてきたので、早速電車に乗って有名なオペラハウスに行く。駅のホームから電車の感じからして、これは絶対に東京だ!懐かしい。 15分くらいでハーバーの駅に着いた。ホームからすでに海と海岸に立つ白いオペラハウスが見える。急いで駅を出て近くまで行ってみる。思ったよりもずっと小さい建物だが、夕暮れの最期の陽を反射して白く綺麗に映える。反対側には、これも有名な大きな鉄橋が見える。そのままロックスと言われる旧市街へ。レンガの古い建物が並び、そこには洒落たレストランが並ぶ。どこかに入ってゆっくり食事をしたいものだが、観光地で食事するのも高くつくし、何故か疲れが出てきたので、ホテルに戻ってその辺りで軽く済ませる事にした。また、電車に乗って15分でホテルに戻る。 ホテルの周りはB級グルメの宝庫であった。何気ない路地に赤い提灯がかかっていて小さなチャイナタウンになっていたり、大きなフードコートに安い定食屋から、麺物屋、自分で材料を見繕って焼いてもらう料理店など、沢山の中華料理屋が出ていて、ここは一瞬香港かシンガポールかと思うくらいである。西洋社会でこれは珍しい。昔勤めていた会社では、環太平洋の地域をまとめてAsia Pacificと言っていたが、この国ではそれを肌と舌で感じることができる。そう、ここはアジア・パシフィックなのだ。 シドニーは洗練されていて便利で住みやすそうな街である。これは明日からの二日間が楽しみだ。早速、明日はFree Walking Tourに参加する事にして消灯。 (続く) |
第6話 10月2日(火曜日) シドニーの優雅な一日 |
もう時差ボケは無いと言える。生きた心地がする(笑)。今日は終日シドニー観光である。あるオーストラリアの作曲家とコーヒーを飲む話をいただいていたが、それは次の日を提案して今日は夫婦で遊ぶ事にした。三時間に及ぶFree Walking Tourに参加すると言うので、腹ごしらえにマックに入ってビッグな朝食をとる事にした。最近のマックの傾向なのか、それともシドニーの文化なのか、マックの中にMacCafeなる別コーナーが設置してあり、ここで一杯一杯手でコーヒーを煎れてくれる。ガイドブックによるとシドニーには独自に発達したコーヒー文化が有名だそうだ。 たっぷり朝食を取って、集合場所まで歩く。ホテルからオペラハウスがあるシドニーハーバーまで、ジョージストリートという長い通りで結ばれている。マンハッタンで言うブロードウェイだ。イングランドの国王ジョージ3世に因んで名付けられたそうだ。映画「The Madness of King George」でも描かれた彼は、ドイツから来たハノーバー王朝の三代目で初めてのイングランド生まれの国王である。彼の治世でアメリカが独立し、植民地を失った彼は気が狂ったとされているが、今の医学でそれは遺伝で受け継いだポーフィリアという血液の病気であったことがわかっている。息子が史上最悪の国王ジョージ4世、その姪っ子がヴィクトリアである。 なかなか綺麗な街並みは、沢山の中華料理屋が並ぶ。コーヒー学校もあった。ここに入学すれば、カプチーノに熊の絵を描く方法を教えてくれるのであろう。 集合場所の市役所前にはすでに50人ほどの人が集まっていた。どうやら本当に無料なようだ。私たちのガイドは若くてぽっちゃりした可愛いオーストラリアの女性で、なんと夏にお世話になったフランス人の友達に瓜二つであった。 彼女の郷土愛は本物で、ちょっとしたトイレ休憩を挟んで三時間、途切れる事なくシドニーの中心街を歩いて歴史的な建物を見学した。ヴィクトリア女王を迎えるために建てたと言うヴィクトリア・ビルは壮大である。そう、シドニーとメルボルンはかなりのライバル意識を持ったオーストラリアの二大都市で、国の首都を決める際に大いにぶつかり合ったそうだ。あまりにも決着がつかないため、両都市の中間地点にキャンベラという新しい街を作ってそこを首都にしたそうだ。 ツアーはオペラハウスで解散。昨夜夕暮れの中で見た建物は晴天下ではさらに白く、本当に貝殻のように見える。設計はデンマークの建築家、ヨーン・ウツソン(Jørn Utzon)、デザインが複雑なこともあるが、建築中に資材の値上がりもあり、なかなか完成せず、「未完成交響曲」と皮肉られながらも、着工から14年後の1973年に完成。ただ、彼はその前に亡くなって息子が竣工を見届けたそうだ。14年なんてパリのノートルダム大聖堂の600年に比べれば一瞬だと思うのだが(笑)。 あまりにも素晴らしいツアーなので、もちろんチップをはずんだ。ふーん、世の中にタダというものはない(笑)。が、シドニーのプライドと愛を感じてほこっとさせられるツアーであった。最後に、ジャシンダという名前の彼女にフランスに親戚がいないか聞いてみたが、一人もいないという事であった。他人の空似であった。 そこからは、彼女のオススメ、シドニーハーバーから無数に出ているフェリーで、Manly Beachに行く事にした。彼女曰く「30分で行けてお洒落な街とビーチがある」とのこと。早速フェリーに乗り込む。船はオペラハウスをぐるっと回って沖に出る。景色の綺麗な事。普段白と黒の鍵盤を見ている自分は、空と海の青さと波の白さに、心が洗われる(笑)。波止場に着くとさらに驚いた。なんと水着姿の若者たちがご自慢のボディーを見せびらかして闊歩しているではないか。ここはパラダイスなのだ。もちろん私たちは水着は持っていないし(セーターを着てるんですけど)、そろそろ夕刻なので海に入ることはないが、ビーチに出て束の間の海辺を楽しんだ。それにして、街は若者でごった返してエネルギー満点の素晴らしい場所である。お腹が空いたので、ベトナム料理のファストフード店に入ってボストン時代からの私の好物「火車式牛肉粉(牛肉の入った白いラーメン)」を食べた。こんな綺麗なビーチに中華料理屋が並ぶ、ここは一体何処なんだ(笑)。 すっかりパラダイスを堪能してフェリーでハーバーに戻った時には、ちょうど夕暮れが訪れるところであった。オペラハウス、シドニーブリッジ、水面、行き交うフェリー、飛び交うカモメ、そしてそこに集う幸せな人々、全てがオレンジ色の夕日に照らされて、まるで魔法をかけられたように輝いていた。言葉では言い表せない美しさである。 シドニー万歳! (続く) |
第7話 10月3日(水曜日) シドニー最終日 |
今日はオーストラリアの最後日、実はあるオーストラリアの作曲家とのミーティングを、私は今日と提案していたが、どういうわけか彼は昨日だと勘違いしていたことがわかった。昨日とは打って変わった曇り空を見ながら、それでも昨日にシドニーのハイライトに出かけてビーチを堪能できて本当によかったと思った(失礼)。 さて、最終日はシドニータワーから始める。昨日のウォーキングツアーで紹介されていたので、早速行く事にした。入場料がベラボーに高いが、この後行きたい自然動物園もセットになっているので、チケットを買って上に登る。このタワー、何処かハチミツをすくう道具に色も形も似てる。展望は予想通りハーバーのオペラハウスとブリッジが目玉である。何故が展望台には中国の屋台が出ていて、そこで焼売を売っている。急に食べたくなったが我慢して下に降りた。 そこから、動物園へ。そう、ここに来たら見なければいけない動物がある。南半球で独自に発達を遂げた有袋類、特にコアラとカンガルーである。その昔、コアラブルーというブランドがあった。歌手のオリビア・ニュートン・ジョンがプロデュースしていて、私の父親がオーストラリアのお土産に買ってきてくれた。しばらくしたら実家の近所に店が出た。動物園は、蝶や、ヘビ、ウォンバット、ワラビー、タスマニアンデビル、ダチョウのような大きな鳥から巨大なワニまで、ありとあらゆる種類の動物がいる。でも、流行り圧巻はコアラだ。間近で見ると顔が面白すぎる。必死に木の上で葉を食べるか、爆睡するかしている。隣で、人が写真を取っているのに寝続けられるという神経にびっくりした。夏にユーカリの油を含んだ葉から出火して山火事になっても、動きが緩慢すぎて逃げられないという哀れな話はどうやら本当のようだ。 カンガルーはそれに比べて非常に繊細な動物のようだ。手足のバランスが著しく違うので、一見大変そうだが、平和な顔をして大根の葉っぱを食べていた。初めて知った事だが、彼らは直立するために二本の足に加えて尻尾を使う。尻尾で立って両足の向きを変えたりもする。よく見ると、尻尾は脚よりも太く、地面につくところは平らになっている。奇妙だが、愛らしい動物である 他にも夜行性なので極度に暗い檻に入ったトカゲ、巨大なゴキブリやハエなどあまり見たくもない昆虫もいっぱい居た。綺麗な若い女性スタッフが手にウジ虫を乗せて見せてくれた。 さて、「コアラと記念撮影をするとシャツを破かれる」と忠告してくれた友人がいたので、眺めるだけにして、動物園を後にした。海辺の綺麗なスポーツバー風のテラスに、オージーステーキ9ドルという看板が出ていた。それは食べるしかない。早速注文して出てきたステーキは単純な味付けだが、とても美味しく幸せな気分にしてくれた。海辺を行き交う様々な国籍の人々を眺めながら、非常に国際的で住みやすい街なんだろうと感じた。 さて、夕刻迫るシドニーで私たちが選んだ最後のアトラクションはFish Market。さらに歩いて閉店間際の魚市場に入った。さすが海に囲まれた街だけあって、立派な魚市場がある。この海と大都会という立地条件はシアトルに非常に似ていると思う。ここにも中華料理店が入り、新鮮な魚を美味しそうに調理してくれているようであった。お腹が空いていればさぞかし美味しいシーフードを楽しめるだろうと思いながら今回は諦めて、大人しくバスでホテルに帰る。 ホテルの近くにはUTS (Universiry of Technology Sydney)のキャンパスもあり若者が大勢いて活気がある。その近くに、今回の旅ですっかりファンになってしまったアイスティーをもう一度楽しむ事にした。Cocoという名の小さな店には列が途絶えることはない。ほとんどが中国系の若い女の子で、中年の男性は私一人であった。でも、その冷たさと香りの良いティー、そこにタピオカが沈んでいて、最後にストローで吸い上げるこのドリンクはたまらない。ニューヨークにも早く進出してほしい。 オーストラリアは本当に面白いところだ。これだけアジア系とヨーロッパ系が混じり合っている街を見たことがない。食べ物も日本人の私たちには優しい。 ニューヨークからは地球の裏側に当たるこの遠い国だが、秋の忙しいスケジュールをやりくりしてやって来て本当に良かった。まさにアジアパシフィックだけあって、今たくさんの移民がやってくるメルティングポットだ。遠いので簡単には来れないが、三年後かどうかは別としてまた戻って来たい。コンサートを企画してくれたピーター、スタッフの皆さん、街の人、本当にありがとう! (終わり) |
Camera: Canon 6D, SL2 & iPhone X
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